赤浜のしおさい ― 小値賀からわたる声(2)
「関わりのかたち」- かじくんの報告書
本シリーズは、2025年初春、五島列島・小値賀島での滞在を通して島の人々にお話を聞いた記録です。
島に暮らす人、島を離れた人、島にやって来た人。
それぞれの声を、それぞれが語りかける“誰か”に宛てた文章として編んでいます。
「島とは何か」「自分とは誰か」——
小さな島の暮らしのなかに、思いがけずそんな問いの断片が浮かび上がることがあります。
地域おこし協力隊 最終報告書(非公開稿)
報告者:かじ 活動期間:令和6年4月〜令和7年4月
Ⅰ. 任期前の動機と応募経緯
初めて小値賀町を訪れたのは、大学3年生の春だった。友人との旅をきっかけに、数日間の滞在だった。地域の人と話したり、空き家を見に行ったり、港でぼーっとしたり。そのときはまだ、「就職」とか「地域に入る」とか、そんな大きなことは考えていなかった。
ただ、なんかおるだけでええ気がした。
誰かと深い話をしたわけでもないし、すごい景色を見たとかでもないけど、
あのときの空気が、ずっと残ってて。
その後、小値賀町の議員で地域おこし協力隊の制度を知る機会があった。全国の事例が紹介される中で、「小値賀」という文字を見つけて、自然と気持ちが向いた。なにか強い動機や明確な目標があったというよりも、あのとき感じた「なんとなく居心地がよかった」感覚を確かめたくなったのかもしれない。
「もう一回行ってみようかな」くらいの気持ちで、町役場のページを見て。
そしたら協力隊を募集してた。
「人と関わることに抵抗のない方」って書いてあって――
ああ、そんなんでええんやって思った。
議員によると、「商店街のにぎわい創出」「町の魅力発信」などが主な活動内容として挙げられていた。正直、それがどういう仕事か具体的には想像できなかった。でも、自分が人前で話すのが得意じゃないことも、よく考えたら人の話を聞くのは嫌いじゃないことも、ちょっとずつわかってきた頃だった。
面接では、小値賀町役場の担当者に、「今までに何か地域のためにやったことはありますか」と聞かれた。胸を張って言えるような経験はなかったが、「ただ、関わっていきたいと思っています」と素直に伝えた。
そしたら、「じゃあ来てみたら?」って。
たぶんほんとは、もっとちゃんとした理由とか期待されてたんかもしれんけど、
面接の最後に「まあ、そんなに難しく考えなくてもいいですよ」って言われて、
ちょっと安心した。
こうして、自分の中ではあまり「重くない決断」として、小値賀での協力隊生活が始まった。覚悟というよりは、「今なら動けるかもしれん」という直感に近いものだった。
Ⅱ. 活動初期と地域との関わり
2024年3月、長崎大学を1年間休学して、小値賀に引っ越し、地域おこし協力隊としての任期が始まった。最初の数ヶ月は、とにかく「人に会うこと」と「地域の空気を知ること」を自分の目標にした。
誰が何をやってて、どの人にどう挨拶すればいいのか――
そんなの、地図にも名簿にも載ってないから、最初はとにかく歩き回った。
商店街の人に声かけたり、集会所の掃除を手伝ったり、
「ここにおる協力隊の子」って、まず顔だけでも覚えてもらえるようにって。
平日は町役場の産業振興課に席を置きつつ、現場での仕事が多かった。ゴミステーションの掃除や広報紙の配布、イベント準備など、地道な作業を積み重ねる中で、少しずつ地元の人たちの輪に入っていく感覚を得られるようになった。
「え、協力隊ってゴミも拾うん?」って言われたこともあるけど、
自分としては、誰かと並んで何かする時間の方が、よっぽど意味があった。
「お疲れさま」って言われるのが、嬉しかった。
活動初期に関わった中で印象深かったのは、地元の商店街での「鯉のぼり掲揚」の手伝いだった。協力隊として初めて現場で参加した地域行事であり、町の保育士さんや役場の職員と一緒に鯉のぼりを取り付ける作業は、物理的にも精神的にも「この町の一部になった」感覚を与えてくれた。
あんまり高いところ得意じゃないけど、
鯉のぼりが風にのって泳ぎ出したとき、なんかちょっと泣きそうになった。
たぶん、そういう感情って、理屈じゃなくて「ちゃんと関わってる」って感じたときに出るんやと思う。
また、島内の他の協力隊メンバーや地域活動団体との顔合わせも積極的に行った。特に印象に残っているのが、同時期に納島で活動していた協力隊の(通称)ぐっちゃんとの出会いで、活動の相談や地域との接し方について、互いに率直なやりとりができた数少ない相手だった。
「こんなことして、意味あるんかな?」ってぐっちゃんが言ったとき、
なんかすごい安心した。
自分もそう思ってたし、でも言っちゃいけん気もしてたし。
そういうの、言い合える人がいたのは、ほんまに大きかった。
島の生活は、天気やフェリーの運航状況にも左右される。行事の予定がずれたり、材料の調達が難しくなったり、そうした“イレギュラー”が日常に溶け込んでいる。それも含めて、活動初期の最大の学びは、「地域に合わせること」だった。
最初の数ヶ月は、何をしたかっていうより、
「どういるか」ばっかり考えてた気がする。
そっちの方が、たぶんむずかしい。
Ⅲ. 商店街での取り組み
活動の中核として位置づけられていたのが、商店街の活性化に関する取り組みだった。小値賀町の中心部にある商店街は、かつては島民の生活の拠点として多くの人が行き交う場であったが、近年は過疎化と高齢化の影響により空き店舗や閉業が目立つようになっていた。
梶の担当業務は、主に「にぎわい創出」と位置づけられ、年間を通じて様々なイベントの企画・運営を行った。4月の鯉のぼり掲揚、7月の七夕飾り、夏祭り、10月の良いの祭りや産業祭、ハロウィン、そして12月のクリスマス装飾と、町の行事カレンダーに合わせて準備から実施、片付けまでを担った。
なんか、季節ごとにイベントやってるはずやのに、いつも初めてみたいな気分やった。
鯉のぼり立てるだけでも、梯子どこにあるんやろとか、誰に声かけたらいいんかとか……。
「そんなことも知らんのか」って思われんように、こっそり聞いて、こっそり動いたりしてた。
特に印象に残っているのは、商店街空きスペースを活用した「からあげイベント」だった。地元の複数のお店の店長と一緒に唐揚げを揚げて販売し、利益をまた彼らに還元するという取り組みで、材料の仕入れや試作、チラシの作成、当日の接客まで、すべて自分たちで行った。
唐揚げって、意外とむずいねんな。温度低すぎたらベチャベチャなるし、上げすぎたら硬いし。
でも、試食で食べてくれた近所のおばちゃんが「うまかね〜」って言ってくれて、ちょっと泣きそうになった。
あの一言だけで、「もう一回やろう」って思った。
こうした活動は単発ではあったが、「何かをする場所」としての商店街の印象を少しずつ変えていった。これまでは素通りされがちだった通りに、イベント時には子どもやお年寄り、帰省中の若者までが足を運ぶようになり、住民主体の出店提案なども出始めた。
「またやらんとね」って言われると、なんか責任感じるようになって。
でも同時に、誰かが「次やるとき手伝うよ」って言ってくれるようになったんが、いちばん嬉しかった。
たぶん、自分が何をしたかっていうより、「ここで何かしてもええんや」って思ってもらえたのが成果なんやと思う。
Ⅳ. 子どもたちと関係人口
活動の中で、特に印象に残っているのが、子どもたちとの関わりだった。協力隊の任務として明文化はされていなかったけれど、商店街のイベントやワークショップなどに関わる中で、自然と「遊び相手」や「お兄ちゃん」的なポジションを担うことになっていった。
夏に行われた七夕飾りイベントでは、地元の小学生たちと一緒に短冊を書いたり、笹を飾ったりした。最初は照れくさそうだった子どもたちが、2回目3回目と顔を合わせるごとに、少しずつ話しかけてくれるようになっていった。
「今日も唐揚げ屋さんの人?」って言われて、
ああ、自分は“そういう存在”になってるんやなって思った。
ちゃんと「こっちの世界」に入れてもらってるって感じがして、
なんかめっちゃ嬉しかった。
秋のハロウィンイベントでは、仮装して商店街を練り歩く子どもたちの誘導役を担当した。特に印象的だったのは、事前に町の人たちと一緒に用意したお菓子セットの袋詰めで、限られた予算の中でどう「わくわく感」を出すか、何度も相談して試作を重ねた。
「あっこれ入ってる!」って声を聞いたとき、
全部報われた気がした。
そんだけのために1週間準備してたけど、なんか、それで十分やったかも。
また、凧あげワークショップでは、東京藝術大学の学生と地元の子どもたちをつなぐ役割を担った。言葉にしづらいけど、「島の子たちと外の人が一緒に何かをする」って、簡単そうで、実はすごく繊細なバランスが必要だった。
どっちかだけが「教える側」や「受ける側」になってまうと、うまくいかん気がしてて。
間に入って「こっちの言葉」と「あっちの言葉」をちょっとだけ訳すみたいな――
そんなポジションが、自分にはちょうどよかったんかもしれん。
特別なことをしたつもりはない。でも、「あ、また来てくれたんやね」って言われることが少しずつ増えていって、「この人はこの町にいる人なんや」って思ってもらえるようになった気がした。
自分が子どもの頃、町のどこかに「なんとなくいつもいる大人」がいたように、
たぶん自分も、あの子らにとってそういう人のひとりになれてたら、
それでよかったんやと思う。
Ⅴ. 振り返りと今の気持ち
協力隊としての一年間は、何か大きな目標を達成したというよりも、小さな積み重ねの連続だった。イベントのたびにテントを立て、机を出し、唐揚げを揚げて、風で飛んだ飾りを拾いに走った。暑さと寒さと湿気にまみれながらも、「お疲れさま」と声をかけられることが、何よりのモチベーションだった。
自分の中にある「仕事」のイメージが、少しずつ変わっていった。
誰かに感謝されるとか、成果を残すとか、それも大事やけど、
なんか、「その場におること」自体に意味があるんやって思えた。
島の人たちは、誰かのことを「よう知らん」ままに、案外あたたかく受け入れてくれる。もちろん、警戒もあるし、うまくいかんこともたくさんあったけど、それでもどこかで「まあ、おってもええよ」って空気を出してくれていたように思う。
夏の終わり、商店街の空き店舗で唐揚げ屋をやったとき、近所の子どもが「またやるん?」「次はいつ?」って聞いてきた。あれが、いちばん嬉しかった。自分が残したものは何かと聞かれたら、たぶんそれなんやと思う。
イベントや記録じゃなくて、「また来るん?」って聞いてくれる関係性。
それが、たぶん「地域」とか「まち」とかの、ほんまの正体なんかもしれん。
任期を終えて、いまは長崎市内の大学に戻っている。以前のように講義を受けたり、研究室でゼミに出たりする日々に少しずつ戻ってきてはいるけど、どこかでまだ「島時間」が体のどこかに残っている気がする。
協力隊としての経験がこれからどんな形で活きるのか、今はまだはっきりとはわからない。ただ、「あのとき、自分なりに一所懸命おった」と思える時間があることは、これから先を生きていくうえで、確かな支えになると思う。
なんでも言葉にせんでもいい。なんでも形にせんでもいい。
でも、そん中でちゃんと「ほんま」がある時間やったって、言える気がする。
この報告書が、これから地域で活動する誰かの小さな参考になれば幸いです。
そして何より、小値賀で出会った皆さんへ、心からの感謝を込めて――。
令和5年5月
長崎県北松浦郡小値賀町 地域おこし協力隊(令和5年度 任期終了)
かじ
この物語は、ある語りをもとに編まれたフィクションです。
事実の断片から立ち上がった声たちは、誰かのものであり、誰のものでもありません。あなたが知っている誰かに似ていたとしても、
それはきっと気のせいです。
小値賀の地域おこし協力隊についてもっと知りたい方はこちらへ
https://ojika-citypromotion.com/kyouryokutai/
https://www.town.ojika.lg.jp/soshiki/mirai/kyouryokutai/index.html





