赤浜のしおさい ― 小値賀からわたる声(7)「美術を教えるあなたへの備忘録」
本シリーズは、2025年初春、五島列島・小値賀島での滞在を通して島の人々にお話を聞いて、その人になり切った自分が書いた記録です。
島に暮らす人、島を離れた人、島にやって来た人。
それぞれの声を、それぞれが語りかける“誰か”に宛てた文章として編んでいます。
「島とは何か」「自分とは何か」——
小さな島の暮らしのなかに、思いがけずそんな問いの断片が浮かび上がることがあります。
1. はじめに
これは引き継ぎでもなければ、お願いでもない。
もしもあなたが来年、小値賀中学校の美術室に立つことになったとしたら、そのとき手にとってくれたらいいなと思って書いています。もちろん、これは公式な資料でもなんでもないので、気に入らなければ捨ててくれてかまいません。
でも、美術教師って、たぶん思ってるより「ひとりぼっちの仕事」です。教科書も参考にならんし、全国学力テストもないし、誰に相談していいかもわからんまま、木炭の粉と中学生の言い訳にまみれて一年が過ぎていく。
私も最初はそんな感じで、気づいたら四年が経っていました。
「これでよかったんかな」と思う日も、あった。でも、「よかったな」と思える日も、確かにあった。
ここに書いてあるのは、そんな時間の記録です。
うまくまとまってるかは分かりませんが、誰かがこの島で次に「教える」ということに向き合うとき、少しでも灯りになればと願って。
2. 西成から始まった問い
正直に言うと、最初から美術教師になりたかったわけじゃないんです。
高校のときは、体育の先生になりたいって思ってたくらいで。でも、工芸が好きだったし、「美術の先生もおもしろそうやな」となんとなく進学した先が大阪の大学でした。
専門は陶芸。
卒業してすぐ、教員採用の通知が来て、配属先は「西成の学校です」とだけ言われました。選ぶ余地はない。
正直、周りにはめちゃくちゃ止められました。
「ほんまに行くの?」「怖いやろ」って。
でもね、「行ったことないのに、なんで分かるん?」って思ったんです。
私は自分で見て、感じて、納得せんと気が済まん性分で。
それで、「行きます」って即答しました。
西成では7年ほど勤務しました。
中学校の美術教師として、担任も持ちながら、いわゆる“やんちゃな子たち”と毎日過ごしました。
ある日、帰ろうとしたら、自分の自転車のサドルの上に、明太子おにぎりがぐしゃっと潰れて置いてあったんです。
「なんで食べ物粗末にすんねん!」って、ほんまに、胸がぎゅっとしました。
私は、それを見つけた瞬間にその子を呼んで、「これはいかんで、作ってくれた親御さんにも申し訳ないやろ」とちゃんと伝えました。
次の日、家で母にその話をしたら、「そらアンタ、怒ってええわ」って笑われましたけど(笑)。
それでも私は、どこかでその子のことを「叱る対象」としてではなく、まだちゃんと関わってこれてなかった子として見ていた気がします。
まあ、そんなこともありながら、私はその学校がけっこう好きでした。
子どもたちと向き合うのはしんどいこともあるけど、こちらが本気で関われば、ちゃんと返してくれる。
ただ、心のどこかでずっとひっかかっていたのは、「評価することのむずかしさ」でした。美術の成績、どうつけますか?
「うまい」「きれい」「完成度が高い」…それってほんまに子どもを見てることになるんかなって。
美術を職業にしたいわけでもない子たちに、5段階の数字をつけることが、果たして意味のあることなのかどうか。
そんな思いが、だんだん私の中に積もっていきました。
3. 評価をつけない
支援学校に移ったのは、子どもが生まれたタイミングでした。
西成では7年ほど働いて、その間ずっと担任も持って、部活の顧問もして、行事の準備もして…。それこそ、日が落ちてからやっとひと息つけるような毎日でした。
でも、自分の子どもが生まれてから、それまでと同じ働き方はもう無理やと、はっきり思いました。家に帰っても、まだ学校のことが頭から離れない。寝顔だけ見て、また朝出ていく。その繰り返しに、どこかで「これでいいのか」と思い始めていたんです。
だから、支援学校に異動したいと申し出ました。
配慮してもらえたのか、翌年には大阪市内の支援学校に異動が決まりました。
あの2年間は、私の教員人生のなかで、大きな転換点になった。
毎日3時半に子どもたちがバスに乗って帰る。それが日常。
そのあとは、しっかり教材研究の時間が取れる。迎えにも行ける。夕飯の準備もできる。
そんな“ちゃんと暮らす”日々を、私はそこではじめて経験しました。
そして、それ以上に大きかったのは、「成績をつけない授業」が日常だったことです。
支援学校では、ただ「この子はこの時間にこういうふうに向き合っていた」「こんなふうに工夫していた」と、観察した事実を書くだけ。
それだけでいい。
支援学校では、見ようとしなければ見えないような、小さな変化がたくさん。
クレヨンを1本しか使わなかった子が、ある日3本使っていたとか、いつも真ん中にだけ描いてた子が、紙の隅に描いたとか。たとえば、ある子は言葉を発しませんでした。
コミュニケーションは、まばたきだけ。
「はい」なら1回、「いいえ」なら2回。
それだけで、授業に参加していた。私の授業にも。
その子が、水の入ったバケツの前で、じーっと筆をにぎったまま動かないでいた時間。
それを見て、「なにを感じてるんやろ」「どうして動かないんやろ」と思いながら、私は横に座っていました。
そして彼が筆をそっと水に入れて、一回だけまばたきしたとき。
私は「やっと出た」と思いました。答えじゃなくて、彼の“タイミング”が。
その子たち“見ていた世界”を、一緒に覗かせてもらうような時間だった。
それを見守ることが、教えることとちゃうんか。
そう思えたのは、あの2年間があったからです。
あの学校では、障害の有無に関係なく、“表現”がひとつの「存在証明」でした。
4. 正解を手放す授業
小値賀に来たのは、まったくの偶然でした。
もともと、長崎の波佐見に一時期住んでいて、「陶芸、やれたらええな」と思ってたんです。せっかく陶芸を学んできたんやし、子育ても落ち着いたし、次は“学ぶ側”に戻ってみようかな、と。
でも、コロナ禍で、陶芸の学校も職場も、ことごとく閉じてしまってた。
波佐見の町工房も「今は人を入れられん」と言うし、求人サイトを見ても、あっても13万円とかそんな世界。
そんなとき、たまたま小値賀から電話がかかってきて、「先生として来ませんか」と。
美術の専任教員が何年か不在だったらしく、体育や技術の先生が代わりに美術を見ていた時期もあったそうです。
正直、名前も聞いたことのない島でした。
でも、「行ってみなわからんやろ」の精神で、私は返事をしました。
島に来てみると、まず最初に思ったのは――
子どもたちが、“すごく素直に、でもすごく正解を欲しがる”ということでした。
「先生、この色って、どうやったら小豆色になりますか?」
「これ、合ってますか?」
たしかに、わからないことを聞くのは大切なこと。でも、それだけじゃあかんのちゃう?自分で混ぜてみて、自分で試して、「あ、違った!」って笑うような経験が、少ない気がした。
だから、私は「正解を教えない授業」を始めました。
15歳の彼彼女たちに「15歳の存在証明」というテーマで課題を知って出しました。
自分の“今”を作品にする。でも、完成度やクオリティで評価しない。
毎回の授業ごとに「気づいたこと」「今日の発見」「うまくいかなかったこと」などを書き残す。
その記録自体を、私は一番大事に見ていました。
ある男子生徒が、「自分なんか作られへん」と言って泣きそうになったとき、私は「それも含めて作品になるよ」と言いました。
自分の“作れなさ”と向き合って、それを作品にする。
そういう視点を、少しずつ子どもたちと共有していきたかった。
そういうのって、教科書には載ってへんし、テストもできひん。
でも、その子がその日、その場所で、何かに気づいてくれたとしたら、それだけで私は満足です。
この島では、教えるというより、一緒に立ち止まることのほうが、ずっと大事やと思うんです。
5. “松の根”を掘る理由
小値賀で「松を掘った」って言うと、大げさに聞こえるかもしれませんが、私にとってはけっこう印象深い出来事でした。
校長先生のひとことからはじめました。
「テニスコートの跡地に、松がすごい育っとるけん、今のうちに見とったほうがいいよ」
何のことかと思いました。
行ってみたら、たしかに――校舎の向かい側、道路を挟んだ向こうのスペース。
前はテニスコートだった場所が、草ぼうぼう。
草の間から、若い松の木が何本も、まっすぐに、しかも不自然なほど元気に立っていたんです。
この土地のことを知らない私でもわかるくらい、「ここだけ異様に生えてる」って感じで。
5年前にテニス部が廃部になってから放置されて、その間に風に飛ばされた松ぼっくりか何かが落ちて、自然に芽を出して根を張った。
それを見て、すぐに「これは授業にしたいな」と思った。
私の中で、“掘る”って行為はすごく象徴的なんです。
何かをつくるときって、たいてい“描く”とか“積む”とか“貼る”とか、足す作業やけど、 “掘る”って、引き算。削る。のぞく。見えないものに触れる作業やなって。
根っこって、見えないでしょ?
でも、それがないと木は立たん。
子どもたちにも、見えない根っこがある。言葉にしない感情や、誰にも見せていない弱さ。
それを、「これは大事なんやで」って伝える方法として、松を掘るのはすごくよかった。
作業当日は、みんな長靴とスコップ持って、ちょっと遠足みたいな空気。
「先生、これ掘ってどうすんの?」
「また美術でなんか作るん? 松アートとか?」
そんな冗談まじりの会話をしながら、土を掘り返す。
根っこは思った以上にしぶとくて、縦だけじゃなくて横にもびっしり広がってる。
「これ、なんでこんなとこで育ったんやろな?」ある子が言いました。
私は、「誰にも見つけられへんかったから、かえって伸び伸びしたんちゃう?」って返しました。
掘り起こした松のうち、何本かはそのまま使わずに校舎裏にしばらく置いてあって、私も授業の冒頭で、「どれがかわいいと思う?」とか「この根っこ、どこが好き?」って聞いたりしてました。
言葉にしづらい“好き”を見つけてもらう練習。
これは“教材”というより“出会い”としてあったんやと思う。
今後どうするかは決まってません。
使い道を話し合ったこともあるけど、たぶんそれは大事じゃない。
「掘ったこと」「持ち上げたときの手の重さ」「これはなんのため?と問い直す時間」、
そういうのが残れば、それでいい。
松は、誰も見てないうちに育ってた。
この島に暮らしてると、目立たないけど静かに根を張ってる人が多い気がします。
見えないところでちゃんと息して、踏ん張って、それでいて、そこにある。
私はそれを、美術の言葉でどうすれば伝えられるのか、今もずっと考えてます。
“掘る”って行為のなかに、それを見つけようとした時間でした。
6. 母として、島で生きるということ
小値賀に来て最初に戸惑ったのは、「先生」としてではなく、ひとりの大人として、ずっと誰かに見られている感覚でした。
大阪にいたときは、学校と家が完全に分かれていました。
職員室で過ごす時間と、自分の生活ははっきり線が引かれていて、「先生」という顔は学校に置いて帰れるものだった。
でも、小値賀では違う。
スーパーに行けば、レジに立っているのは保護者。
郵便局に行けば、窓口の向こうから「あ、先生」って声がかかる。
島のどこを歩いていても、誰かの知ってる誰かになっている。
自分が「見られている存在」だと、肌で感じる場所でした。
正直、しんどかったです。
「今しゃべってるこの人、息子の同級生の親やな」とか、
「ここでビール買ったら、学校で話題になるかな」とか、
いちいちそんなことを気にしていた時期もありました。
でも、だんだん気づいたんです。
それって、ただ「逃げ場がない」ということじゃなくて、
「見られているぶん、支えられてる」ってことでもあるんやなって。
島に来てすぐの頃、うちの息子はまだ子ども園に通っていて、私は初めての一人親的子育てに四苦八苦してました。
夫は佐世保にいて、仕事の関係で週末しか会えない。
それでも、私はここでやっていこうと決めていました。
朝は息子と一緒に登校、じゃなくて“出勤”。
学校についたら私は職員室へ、息子は教室へ。
お互い別の空間にいるけど、ふとした瞬間にすぐ顔を合わせる距離。
たとえば昼休みに廊下で誰かを注意していたら、後ろから小声で「お母さん、ちょっと言い方きつかったよ」って言われる。
「先生」ではなく、「母親」としてのフィードバック。
下校後、「あの子にああいう言い方したのは、ちょっとかわいそうやったんちゃう?」とか言われることもある。
ドキッとするけど、それってすごいことでしょう?
自分の子どもに、自分の仕事ぶりを見られて、正されていく。
学校という職場と家庭という生活空間が、地続きになっているこの島で、私はずっと「見られながら育てられている」ような気がしています。
そして、それは私だけじゃなくて、子どもたちにも言えること。
この島の子どもたちは、自分の家も、友達の家も、商店も、先生も、全部が「生活の延長」にあって、“余白”がないんです。
クラスでちょっと気まずくなっても、次のクラスで逃げることはできない。
お店で偶然また会う。親どうしが話してしまう。うわさはすぐにまわる。
だからこそ、「逃げてもええよ」っていう空気を、美術室にだけは残しておきたい。
この島で生きていくということは、きっと“関係の濃さ”と付き合うことなんやと思います。
それが煩わしいと感じる日もあるけど、
「誰かと関わりながら、自分を少しずつ変えていく」っていう日々は、思った以上に豊かです。
スーパーで野菜を選んでいて、「あ、先生、今日はナスが安いよ」って言われる日常に、少しずつ、体も心もなじんできました。
息子も、きっとこの島でしかできない時間を生きてる。
彼が将来「もう一回小値賀に帰りたい」って思ってくれたら、それで十分です。
私自身も、いつかまた島を出ることになるかもしれない。
でも、「この島で過ごした母としての時間」は、どんな仕事の記録よりも、自分の中に残ると思っています。
7. あなたがもし、ここに来るなら
この文章を、どこかで誰かが読んでいる。
たぶんあなたは、私のあとにこの島の中学校で美術を教えるかもしれない人。
あるいは、そうなるかもしれない自分を、いま少し離れた場所から想像している人。
まず伝えたいのは、何か特別なことができなくても、ここでは大丈夫だということです。
評価軸がない、基準がない、でも確かに生きている子どもたちと、
ぐるりを囲む大人たちの目と、
潮のにおいと、少しずつ傾く島の時間があるだけです。
私はこの島で、少しずつ「問いの持ち方」を変えていきました。
「なにを教えるか」じゃなくて、「なにを一緒に見つけていくか」。
「何を完成させるか」ではなく、「どこで立ち止まってもらえるか」。
「どんな表現をさせるか」じゃなくて、「どんな沈黙に付き合えるか」。
それがよかったのかは、今でもわかりません。
でも、そうやって“判断しない時間”を一緒に過ごすことが、
この島ではとても大事なことのように思えるのです。
あなたがここに来たら、最初は戸惑うかもしれません。
天気が変わりやすいです。人の距離も近いです。
噂も、風のように回ります。
授業準備のための画材を、フェリーで送ってもらうのに手間がかかることもあります。
でも、誰かとすれ違うたびに「先生、今日何の授業ね?」って聞かれたり、
放課後、夕焼けのなかを自転車で走る子どもの影にハッとしたりするうちに、
あなた自身の“観察眼”が、静かに研がれていくのを感じると思います。
そして、もしかしたらあなたも、ある朝ふと、
「ここで過ごすことそのものが、美術の一部かもしれない」って思うかもしれません。
この島には、展覧会の会場はないけれど、
毎日が、小さな展示のように過ぎていきます。
完成していない絵。
途中でやめたノート。
名前もないオブジェ。
言葉にならなかった会話。
そのすべてが、ここでは「作品未満の大事なもの」として、
ちゃんとそこに、残っていきます。
だからどうか、肩に力を入れずに来てください。
何かを変えようとしなくていい。
この島で過ごした日々は、私にとって本当に幸せが詰まった時間でした。
だからきっと、私もまた、いつかこの島に帰ってくるんやと思います。
もし、そうやってここに来てくれるなら、
私は安心して、島を出られそうです。
この物語は、ある語りをもとに編まれたフィクションです。
事実の断片から立ち上がった声たちは、誰かのものであり、誰のものでもありません。あなたが知っている誰かに似ていたとしても、
それはきっと気のせいです。





